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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:津島亜由子
■放送日 5月23日
大橋 洋治  全日本空輸株式会社 代表取締役社長

今回のトップは全日本空輸の大橋 洋治(おおはし ようじ)社長。

全日空/ANAは、1953年に定期便を飛ばし、翌年に東京大阪間をわずか座席数8席の飛行機で就航。以来50年。ジェット化での大きな成長、国際線への事業展開を果たし、国内外の主要都市に数多くの便を就航させる世界有数の航空会社へと発展してきた。2001年4月、50周年の節目を迎えて、社長に就任したのが大橋である。

しかし就任以後、「9・11、アメリカ同時多発テロ」の発生、イラク戦争のぼっ発、「SARS」問題、国内では長引く景気の低迷、JAL・JASの統合など、航空業界そのものが激変の波にさらされつづけている。くしくも大橋は、この荒波を乗り切る重大な舵取りを担うことになったのである。師とも言える同郷の先輩との出会い。そして、ようやく果たした海外赴任で、彼がとった行動とは?幼き日、生死をかけた大陸からの引き上げという原体験。そこから得た度胸のすわった楽観主義を貫く男の、生きざまに迫る!

1940年、大橋は中国東北部・旧満州で生まれた。貿易会社を経営していた父親は「太平洋を治める」という意味をこめて洋治と名付けた。しかし戦争終決と同時に生死をかけた大陸からの引き上げを体験。極度の栄養失調から頭をあげることすらできなくなり、帰国してからも肺炎を患うなど、幼心にボンヤリと死を覚悟したという。しかしこの原体験が、彼に動じない体力と明日を信じる、楽観主義をもたらした。やがて体力の回復とともに、中学・高校と水泳や柔道など運動に熱中。父親の託した思いに応えるように、船乗りになって外国を回ることを夢見たが、目が悪いことからこれを断念。しかし、海外で活躍する夢は持ち続けた。

1960年慶応大学法学部に入学。自らの原点でもある中国貿易のゼミにはいり熱心に学んだ。この中国貿易論が同じ岡山出身で全日空二代目社長 岡崎嘉平太氏との出会いをもたらした。60年代、岡崎氏は周恩来首相と親交を結び、日中国交正常化・貿易推進の中心的人物であった。大橋は一学生でありながら、単身面会を申し込み、足しげく岡崎氏のもとに通うことになる。岡崎氏の話を聞くこともさることながら、やがて大橋は全日空の社風に魅了されはじめた。常に開け放たれている社長室のドア。若い社員が次々と入って社長に意見を言う。そんな活気に満ちた雰囲気に大きな感銘を受けた。

「……これまで考えもしなかった航空業界、全日空と言う会社……。おれもここで働いてみたい!」折から企業は採用を手控える就職難。しかし、大橋は難関を突破して、念願の入社を果たしたのである。

入社直後は燃料、飛行機の部品から整備用の消耗品まで買いそろえる調達部、その後、人事労務畑・整備本部・営業本部とキャリアを積み、持ち前の明るさと度胸で人望を集めた。1986年、航空業界の規制緩和により、最後発ながら全日空は念願の国際航路への進出を果たす。1990年、翌年3月からのニューヨーク便就航が決まると、当時営業本部宣伝販売部長を務めていた大橋は、思い切った宣伝に打って出た。フランク・シナトラを起用したCMは、当時大きな注目を集めた。

後発、しかも週3便。まだまだ勝負にはならなかったが、大橋の中には、この宣伝により、「規制」に守られ、官僚的な企業体質のイメージを払拭し、新たな時代に対応する全日空を打ち出したい、という思いがあった。時代はボーダレスの大競争時代を迎えようとしていた。それから5年。大橋はそのニューヨークの支店長として、ようやく入社以来念願だった海外赴任を果たす。日本からのニューヨークの路線は、いまだライバル企業に大きく水をあけられていた。

しかし・・・・「それでも一人でも多くの客をむしり取っていかねばならない・・・」初海外赴任の喜びも半ば、大橋は類まれな営業センスと前向きな楽天主義で、ある行動を決意する。果たしてその決断とは?!

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