1940年、大橋は中国東北部・旧満州で生まれた。貿易会社を経営していた父親は「太平洋を治める」という意味をこめて洋治と名付けた。しかし戦争終決と同時に生死をかけた大陸からの引き上げを体験。極度の栄養失調から頭をあげることすらできなくなり、帰国してからも肺炎を患うなど、幼心にボンヤリと死を覚悟したという。しかしこの原体験が、彼に動じない体力と明日を信じる、楽観主義をもたらした。やがて体力の回復とともに、中学・高校と水泳や柔道など運動に熱中。父親の託した思いに応えるように、船乗りになって外国を回ることを夢見たが、目が悪いことからこれを断念。しかし、海外で活躍する夢は持ち続けた。
1960年慶応大学法学部に入学。自らの原点でもある中国貿易のゼミにはいり熱心に学んだ。この中国貿易論が同じ岡山出身で全日空二代目社長 岡崎嘉平太氏との出会いをもたらした。60年代、岡崎氏は周恩来首相と親交を結び、日中国交正常化・貿易推進の中心的人物であった。大橋は一学生でありながら、単身面会を申し込み、足しげく岡崎氏のもとに通うことになる。岡崎氏の話を聞くこともさることながら、やがて大橋は全日空の社風に魅了されはじめた。常に開け放たれている社長室のドア。若い社員が次々と入って社長に意見を言う。そんな活気に満ちた雰囲気に大きな感銘を受けた。
「……これまで考えもしなかった航空業界、全日空と言う会社……。おれもここで働いてみたい!」折から企業は採用を手控える就職難。しかし、大橋は難関を突破して、念願の入社を果たしたのである。
入社直後は燃料、飛行機の部品から整備用の消耗品まで買いそろえる調達部、その後、人事労務畑・整備本部・営業本部とキャリアを積み、持ち前の明るさと度胸で人望を集めた。1986年、航空業界の規制緩和により、最後発ながら全日空は念願の国際航路への進出を果たす。1990年、翌年3月からのニューヨーク便就航が決まると、当時営業本部宣伝販売部長を務めていた大橋は、思い切った宣伝に打って出た。フランク・シナトラを起用したCMは、当時大きな注目を集めた。
後発、しかも週3便。まだまだ勝負にはならなかったが、大橋の中には、この宣伝により、「規制」に守られ、官僚的な企業体質のイメージを払拭し、新たな時代に対応する全日空を打ち出したい、という思いがあった。時代はボーダレスの大競争時代を迎えようとしていた。それから5年。大橋はそのニューヨークの支店長として、ようやく入社以来念願だった海外赴任を果たす。日本からのニューヨークの路線は、いまだライバル企業に大きく水をあけられていた。
しかし・・・・「それでも一人でも多くの客をむしり取っていかねばならない・・・」初海外赴任の喜びも半ば、大橋は類まれな営業センスと前向きな楽天主義で、ある行動を決意する。果たしてその決断とは?! |