1940年、三村は群馬県前橋市で生まれる。片道4Kmを歩き幼稚園に通った。活発な少年だった。中学にはいるとバレーボール部に入部。2年生からキャプテンとしてチームをまとめリーダーシップを発揮、群馬県大会で3位になる。戦後の混乱の中で、5人兄弟の三村家の家計は厳しく、三村は奨学金で高校に進学した。1959年、東京大学の2次試験の前に、苦労のし続けだった父親が亡くなった。
大学進学どころでは無いと思ったが、母親の強い勧めで東京大学経済学部へ進学。親から仕送りは貰わず、奨学金と家庭教師のアルバイトをしながら学校へ通った。中学の時から続けていたバレーボール部に入部。学校、部活、アルバイトとハードなスケジュールの中で唯一の楽しみは、家庭教師のアルバイト先で出して貰う夕食だったという。
成績は優秀、首席で経済学部卒業。(大学から電報通知あり)「1位では無く2位の会社に入って1位を追い抜きたい」そう考えた三村は1963年、富士製鐵に入社。波瀾万丈のトップへの階段へ第一歩を踏み出した。
1963年、富士製鐵に入社した三村は本社 市場開発部へ配属。以後、主に営業畑を歩いていくこととなる。1970年、富士製鐵は八幡製鐵と合併し新日本製鐵へ。業界トップの巨大会社が誕生した。合併後も国内営業・輸出部門の第1線を走り続けていた三村に突然異動の辞令が下る。「経営企画部 部長代理を命ずる」今までやってきた営業の仕事と全く違い、右も左も分からない。営業一筋を自負していた三村には、まさに青天の霹靂の人事異動だった。
三村に与えられた仕事は「多角化と大合理化案の作成」プロジェクトチームの事務局だった。当時、円高の影響と需要の減少で鋼材の価格は見る見る下がり、「鐵はもうダメだ、鐵以外の事業で多角化を模索しなければ」という雰囲気が社内に蔓延していた。プロジェクトのメンバーは、取締役を中心としたそうそうたるメンバー。三村は事務局として会議に出席はするものの、意見を言える立場では無かった。10人居れば10の違う意見が出る。それをまとめる資料作りに三村は忙殺された…。 |