1941年(昭和16年)、菊川は静岡で生まれた。父は電力会社に務めるサラリーマン。両親の豊かな愛情のもと、菊川はすくすくと育った。かけっこでは常に一番。活発で負けず嫌いなわんぱく小僧であった。そんな菊川少年が熱中したのが父の手ほどきで始めた「将棋」。「勝ち」「負け」がはっきりする「勝負の世界」に惹かれたのだ。
とはいえ、父にかなうわけもなく、手もなくひねられる日々。何としても勝ちたい。その一心で菊川少年は考えた。「何故、こんなところに歩を置くのか?」そして菊川少年は思い当たる。「そうか!桂馬をおびきだす為の作戦だ。じゃあ、その裏をかいてやればいいんだ。」以来、腕を磨いた菊川少年は父を負かすほどに腕前をあげていく。
1959年(昭和34年)慶応義塾大学法学部に進学。日本は高度経済成長に突入した時代。菊川は海外での仕事に興味を持ち始める。1963年(昭和38年)、社会人となった菊川は、仕事の傍らビジネス英語をこつこつと勉強し、ビジネスのイロハを身に着けていった。その後、オリンパスに転職。オリンパスがアメリカ進出を決定した当時、36歳で係長だった菊川はその責任者の大任を任される。
当時のオリンパスはプロ向け高級カメラと内視鏡が会社の主軸。当然、この二本柱を中心にアメリカ進出の計画が進められていた。しかし、綿密なマーケティング調査に取り組んだ菊川はそれまでのオリンパスにはない商品の開発ヒントをつかむ。「これだ!アメリカ進出を成功させるためには、これしかない。」菊川はそれまでにない、商品アイデアを胸に自信満々でアメリカ進出の最終会議に臨んだ。しかし、このアイデアは経営首脳陣の猛反対を受ける。
「ウチの伝統を否定するのか!そんな商品はわが社のイメージダウンになるだけだ!」菊川は一歩も引かなかった。「狙えるマーケットはこれしかありません。伝統にこだわらず、新規市場を開拓するべきです!」喧々諤々の会議はまる2日に及び、最後に当時の社長が菊川にこう、告げた。「わかった、わかった。新会社にはおみやげが必要だろう。やってみろ。」菊川のアイデアによる新商品は大当たりし、アメリカ進出は大成功を収める。
果たして、経営トップの猛反対を押し切ったミドル菊川の「海外進出」の革新的なアイデアとは!? |