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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:津島亜由子
■放送日 2月15日
南部 靖之  株式会社パソナ 代表取締役グループ代表

今回のトップはパソナ 代表取締役グループ代表の南部 靖之(なんぶ やすゆき)氏。
株式会社パソナは、1976年の設立からわずか10年で売り上げ250億円、1990年には1,000億円を突破。2002年には東証1部上場を果たした、人材派遣業界のリーディングカンパニー。

「ビジネスを通して社会を変えていく」という信念の元に次々とニュービジネスに挑戦し続ける南部。人生の師と仰ぐ青年住職との出会い。学生時代に放浪したシルクロードでの体験。就職活動の中で閃いたビジネス。学生時代での起業。そして生き方をも変えた阪神大震災。ベンチャーの草分け、南部靖之の溢れ出る起業家魂、その熱意の源泉に迫る!

1952年、南部は兵庫県神戸市に3人兄弟の末っ子として生まれる。父は親類の経営する化学会社の役員。学校の算数のテストで良い点数を取ったときに「友達に勝ったよ!」と報告すると「人との優劣で自分の価値を見いだすな!」と言って父に怒られた。「算数が出来なくても恥ずかしいと思うな。人に迷惑をかけたときに恥ずかしいと思え」こんな父親だった。

母も「算数が出来たからと言って偉くはない。算数の100点と図画工作の100点に違いはない」と言って、南部が描いた画を「上手に描けた」といって10円で買ってくれるような母親だった。こんな両親の元で伸び伸びと育った南部は、小学校6年生の時、父親の薦めで、近所のお寺の若い住職が主催する私塾に通った。ここで南部は人生観に多大な影響を受ける。

いわゆる学習塾とは異なり、青年住職が仏教の教えを説いたり、一緒に遊んだり、時には勉強を教えるといった情操教育を主体とする塾だった。中学、高校と南部は毎日のように寺へ通い、勝手に庭掃除をしたり、泊まり込んで若い住職と人生を語り合ったりした。

1972年、大阪の関西大学工学部に進学した南部は、住職がやっていたような私塾を開く。わずか1年で生徒300人を集めるほど好評だった。この成功で、比較的生活に余裕のあった南部は、シルクロードへ放浪の旅へ旅立つ。ネパールやインドなどを訪れた南部は、そこで多くの体の不自由な人々と出会った。片手がない人、片足がない人。これらの人々との出会いで南部は思った。「2本の手と2本の足があれば何でも出来る!」帰国した南部は卒業を控え就職活動を始めた。

しかし、不況という時節柄とスタートの遅さから、なかなか就職先が決まらない。ある時、「人手不足だ」と嘆く人事担当者に「そんなに人手が足りないなら、自分を雇ってくれればいいじゃないか!」と詰め寄った。担当者から帰ってきたのはこんな言葉だった。「そんなに簡単にはいかない。人を一人雇うということは億単位の金がかかるということだ」この言葉を聞いた南部の脳裏に浮かんだのは、大阪で開いた私塾生の母親達の姿だった。彼女たちは結婚して退職したものの、高い能力を持った人が多かった。

しかし、働き口はパートなどしかなく、能力を発揮しきれないでいた。一方では簡単に人を雇うことの出来ない企業、一方では能力を発揮できない人々。「必要なとき必要なだけ人を雇うことが出来れば、両方が喜ぶのではないか?」会社を起こすことを考える南部に、恩師の住職は「人の信用というものは、指一本、1億円出しても買えないぞ。本当に大切なのは何か。それをじっと見つめながら事業をやりなさい。惑わされてはいかん、とらわれてもいかん、こだわってもいかん」と言って賛成してくれた。父親も「やってみろよ」と励ましてくれた。こうして、卒業目前にして、南部は日本で初めての人材派遣会社「テンポラリーセンター」を設立。創立メンバーわずか4人での船出だった。

1976年2月、南部は日本初の人材派遣会社「テンポラリーセンター」を設立。大阪の貸しビルに10坪ほどのオフィスを構え、最初の社員は南部を含めて4人。初年度の売り上げは2億円に満たなかった。しかし、時代のニーズにマッチした人材派遣会社は破竹の勢いで急成長する。設立3年目には売り上げ20億円を突破し、10年目には250億円、1990年には1,000億円を突破する。ブランド品の輸入販売や、若手アーチスト育成のため、彫刻作品のリースなど様々な分野に進出し、1996年には12万人を超えるスタッフを数える人材派遣ビジネスを核に、国内外100社を超える企業グループにまで成長した。

1997年1月17日、イタリアに出張していた南部に衝撃的なニュースが伝えられた。阪神大震災。生まれ育った神戸が壊滅的な打撃を受けたというのだ。全ての仕事をキャンセルし日本に急行する南部の脳裏に、次々に知り合いの顔が浮かんでいった。震災後の神戸に降り立った南部は、想像を超えたその惨状に愕然とした。「経済人として、自分は今、何をすべきなのか・・・」応急手当てのような対策だけでは本当の復興はおぼつかない。店を失った人たちが生き生きと商売を再開出来るようにならなければ、本当の意味での復興は成し遂げられない。そう考えた南部は、西武百貨店が立地の悪さに負けて撤退したデパートのビルを再利用し店舗を失った人たちのために、1坪ショップとして貸し出した。「神戸ハーバーサーカス」の誕生である。

南部は神戸に拠点を移し、神戸復興のため、他に5つのプロジェクトをぶち上げた。民間版の職業安定所の創設、会場野球ドームの建設など、これらを通して5万人の雇用を創出することが目的だった。「自分の生まれ育った神戸を昔のように復興させたい」その一念で南部は私財を売り払い、この事業のために精力的に動き回った。しかし、南部の目の前に大きな壁が立ちふさがる。巨大プロジェクトを遂行していくには、あまりにも資金力が足りない。自己資本のほかは、友人から集めた資金のみ。社会的な自分の立場の弱さを痛感する。そして本業のパソナの業績が日増しに悪化していった。改めて自らを振り返った南部は、新たなる出発のために決断を下す。果たして南部が下した決断とは!?

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