鈴木は1941年、茨城県東海村で生まれる。幼い頃は、ベーゴマやメンコなど友達と元気いっぱいに遊び回る活発な子供だった。中学1年の時、鈴木を突然の不幸が襲う。結核に冒され学校に通えなくなってしまったのだ。少し前まで結核は不治の病、治るかどうか分からない不安と戦いながら学校を離れ病院で療養生活を送る日々。
しかし、新薬が効き目を表し、およそ1年半に及ぶ療養生活ののち、鈴木は結核を克服し学校に復学する事が出来た。技術革新で助からない命が救われた。この出来事以降、「技術革新」という言葉が鈴木の人生の大きなテーマとなった。
中学に復学する事にはなったものの、同級生は高校受験を控えた中学3年生。1年間で高校を受験するのは難しいということで2年生に編入させてもらった。同級生から遅れること1年、鈴木は高校に見事合格。その後東大経済学部へ進学。科学技術へのあこがれを持ち続けていた鈴木は、当時、圧倒的な最先端技術だった電話を扱う日本電信電話公社へ入社。その後、民営化、分割・再編をむかえる激動の人生の幕開けであった。
1965年、電電公社へ入社したその頃は、労働運動真っ盛りの時代であった。そんな時代背景の折り、数年後、鈴木は労務課長を命ぜられる。当時の総裁は真藤恒氏。石川島播磨重工で日本造船界の黄金期を作り上げ、土光敏夫氏の要請で電電公社の民営化を使命として総裁に就任した経済界の大人物。各方面の強固な抵抗の中、民営化を推し進める真藤氏のもとで、鈴木は9万人の大合理化を担当することになる。
分割・民営化の是非の議論が吹き荒れる中で、組合の説得などの仕事にあたった。通信という社会的な基盤を分割・民営化して、果たして充分役割を果たしていけるのか? 公団の形そのままが社会的責任を果たしていけるのではないだろうか?確信を得られないまま組合を説得しようにも説得のしようがなかった。しかし真藤氏の「技術革新を活かすためには民営化して競争原理を働かせなくてはダメだ」この信念に触れた鈴木は確信した。「うん、これだ!これなら分かりやすい!」
1995年、電電公社の民営化。1999年、NTTの分割・再編。鈴木は現場の第一線に立ってこれを推し進めていった。 |