1937年、島田は東京・日本橋に生まれた。中学・高校生時代はバレー部で活躍する一方、文学にも傾倒した。ゲーテの『イタリア紀行』に感銘を受けナポリに憧れたという。1961年、東京大学法学部を卒業すると、海外での仕事をするために、総合商社 三井物産株式会社に入社。1863年には修業生として、念願のイタリア留学を果たす。このイタリアでの体験が島田の人生観を変えた。『働く時は集中して働き、楽しむ時は何もかも忘れて陽気に楽しむ』人生を謳歌する生き方にカルチャーショックを受けた。しかしその後、一転、地獄が待ち受けていた。
1985年、メキシコ三井物産副社長だった島田は、契約上のビジネストラブルに巻き込まれ、拘置所暮らしを余儀なくされる。メキシコの拘置所はノミ、シラミが這い回り、肝炎が蔓延し、日常的に殺人が起きる劣悪なもの。島田は死を覚悟した。『拘置所の 鉄格子寒く 床に寝て 行く末思う 次男の誕生日』島田は精神の支えとして1000首の歌を読む。
そして300冊の本を読破し、毎日水と食事を差し入れる妻に支えられて、この危機を乗り切った。拘留は実に195日に及んだ。くしくも島田は海外赴任で天国と地獄を見たのである。またしてもきっかけは留学だった。
メキシコから帰国した島田は、1986年ハーバード大学上級経営学プログラム・AMPコースに入学。マクファーレン教授の『情報を制するものは、企業を制す』という言葉に感銘をうけ、ITに目覚める。1990年、三井物産の情報産業部門は、数十億の赤字をだし、お荷物といわれていた。当然社内にも潰すべきだという議論が沸き起こっていた。これに猛反発したのが島田である。
「不採算部門をこのままにはしておけない」 「たしかに今のままではダメだ。だがITによる産業革命はすでに始まっている。企業が競争力を高めるには『情報の産業化』『産業の情報化』は不可欠だ。将来のことを考えれば、今、情報産業部門を潰すべきではない」 「そこまでいうなら、君がやれるのか」 果たして、島田の下した決断とは? |