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直撃! トップの決断 バックナンバー 司会:長谷川洋三 アシスタント:津島亜由子
■放送日 12月21日
矢嶋 英敏  株式会社島津製作所 代表取締役会長

今回のトップは島津製作所の矢嶋 英敏(やじま ひでとし)会長。
島津製作所は、2002年民間企業から初のノーベル賞受賞者・田中耕一氏を輩出した企業として、国内を一気に飛び越えて、世界に名をはせた。島津製作所はもともと京都の地場産業として創業130年になろうとする老舗名門企業、主力は専門性の高い計測機器や分析機器である。

研究開発費は売上げに対する比率約8パーセント、年間120億円を計上する日本の技術開発型企業の代表格として知られてきた。しかし、華やかな話題の裏側で、バブル崩壊以後の島津製作所は売上げの低迷に苦しんできた。

そんな時、島津製作所再生の期待を背負って社長の地位に着いたのが矢嶋である。防衛庁から日本航空機製造に転じ、戦後初の民間航空輸送機”YS―11”の売り込みに世界を駆け回る日々。その航空機のキャリアを見込まれて入社した島津製作所での、思わぬ未知の分野への転属。有数の老舗企業にあって、途中入社からトップにまで上り詰めた矢嶋英敏の苦悩と決断に迫る!

矢嶋は1935年、東京生まれ。父親は小さな土木建築会社を経営、いずれそれを継ぐつもりで、学生のときくらいは好きなことをと、大学は慶応義塾大学文学部独文科へ入学。1957年、防衛庁に入庁するが、転出した当時の上司にスカウトされ、戦後初の国産輸送機”YS−11”を作り出す日本航空機製造へ入社。最初の仕事は、飛行機のエンジンや部品の価格交渉だった。 当時、飛行機のエンジンといえば英国のロールス・ロイス。総合商社経由で高いエンジンを購入していたが、もともと語学力に自信のある矢嶋は直談判で値下げ交渉を提案する。「そんなことできるわけが無い」という上司や同僚の声にも、むしろ闘志をかきたてられたという。

「元のコストは知らないが、”YS−11”に見合ったエンジンの市場価格はこうあるべきだ」という論法で直談判を決行、遂に値下げに成功した。やがて、”YS−11”が発売されると矢嶋は営業に転属、いきなりアフリカ担当を命じられる。「5機売るまでは帰ってくるな」1機約4億円、アフリカにつてはなく、赴任したコートジボワールに当時いた日本人はNHKの駐在員が一人だけ。それでも矢嶋は2年間でノルマを達成した。ここから矢嶋は世界を駆けめぐり、航空機畑一筋のキャリアを作り上げて行く。しかし「高コストで売れても赤字」の”YS−11”は72年に製造中止、日本航空機製造も解散の憂き目にあう。

日本航空機製造の解散の後始末を終え、民間航空機開発協会に出向していた矢嶋に島津製作所から誘いがかかる。当時の島津製作所社長からの度重なる丁重な誘いに、1977年、42歳で入社。航空機事業部・専門課長として主にボーイングなど民間航空機機器の市場開拓に従事した。矢嶋の交渉術は一貫して腹を割って相手の懐に飛び込むことだという。航空機事業部は円高による価格下落に苦しんでいた際、矢嶋は単身「ボーイング767」の部品値上げ交渉に臨む。「円高なんてこっちには関係無い」「じゃ円安になっても、絶対にまけろとは言うなよ」どちらも譲らない交渉は深夜におよんだ。「何故お前はそんなにしつこいんだ?」「儲からないからだ。”YS−11”は儲からなくてやめさせられた。すぐに花が咲かなくてもいい。せめてトンネルの出口くらい見える価格にしてくれ」矢嶋の言葉に、最後には相手も値上げに応じた。

1988年、そんな航空機器一筋の矢嶋が突然本部の貿易部長を命じられる。航空の人間と自覚していた矢嶋にとって、それは全く予想もしない人事だった。「途中入社。文系出身の営業・・・おまけにこれまで扱ったことのない分析機器や医用機器・・・島津製作所での俺の人生もここまでか」しかも貿易部門はアメリカで売るに売れない在庫を抱え込み、輸出が伸び悩むという難問を抱えていたのだ。未知の分野への転属と難問の解決。矢嶋は新たな重圧の中で、どのように光を見出したのか?!

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