1937年、西澤は東京都杉並で父秀蔵と母すゑの間に次男として生まれる。父秀蔵は、終戦後、郷里の滋賀県愛知川町で電気店を開業した。幼い頃の西澤は、画家や作家を目指すなど多感さの一方で、相当な腕白暴れん坊であったが、零細な起業の苦労に走り回る父の背中を見て、中小企業のなんたるかを体に刻みつけながら成長する。1957年、京都大学に進学。作家を目指し文学部に入りたかったが、父の「三文文士で食っていけるのか?」という一言で経済学部に進んだ。
父の影響か「産業」に関心があった西澤は大学で「基礎産業研究会」という同好会に入り、大企業の最先端の工場などを見て回った。その体験から、1961年、日本の産業振興を旨とする「日本興業銀行」に就職。様々な企業を相手に主に営業畑を歩き筆頭常務にまで登りつめる。1997年、西澤は東京都民銀行への転籍を命じられる。顧問を経て頭取に就任した西澤は、経営の内情を知り危機感を募らせた。
762億円もの不良債権・・・。公的資金を導入するか大胆なリストラを断行しなければ都民銀行の未来は無い! 公的資金を受け入れれば独立銀行としての自由はきかなくなる。リストラを断行するには破綻のリスクと共に膨大な血を流さなければならない。選択を迫られた西澤が決断した生き残りへの道とは!?
大リストラと増資で不良債権処理を成功させた西澤は更なる業績回復策を模索していた。メインのお客様である中小企業経営者の実体を肌で感じようと、現場で顧客の声を聞いていた西澤は、あることを実感した。「健全な中小企業が融資を受けられなくて困っている」すなわち、短期の運転資金のつなぎ融資をしてくれる商品がない、すぐに資金が必要なのに審査に時間がかかる、担保、保証人がないと融資してくれない。といった中小企業経営者の声だった。
当時は、貸し渋りという言葉が出始めた頃で、商工ローンなどの高金利融資が活況を呈していた。この状況を見た西澤は考えた。「少々利率が高くても、無担保、即決の商品があればみんな助かるんじゃないか?」商品開発を提案したところ、議論百出で疑問視する向きが大勢であった。「そんなに短期間で審査するのは無理だ」「ただでさえリスクが高い中小企業に無担保、無保証は危険すぎる」理想と現実の狭間で苦悩する西澤。やはり、中小企業を助ける理想の商品開発は無理なのだろうか? 西澤の決断とは?! |