生きなおす 吉岡忍が歩いた被災地の3年間

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情報・ドキュメンタリー
3月1日(土)夜9時 【放送は終了しました】

番組概要

東日本大震災から3年が経つ。被災直後に被災地に入った吉岡忍は、凄まじい自然の力と人間の無力さを目の当たりにする。この3年間、吉岡は3年間でのべ200日以上被災地を訪れ、何百人という被災者の話に耳を傾けてきた。誰もが1日も早い復興をと言った。もちろん、それは簡単ではない。そんな中で、吉岡があらためて話を聞きたいと思った人がいる。それは、自分の力でやるべきことを見つけ出し、そして、自分の力で立ち直ってきた人たちだ。

生きなおす 吉岡忍が歩いた被災地の3年間生きなおす 吉岡忍が歩いた被災地の3年間

番組内容

震災から1週間で土地探し!
失わなかったのは命だけ、70歳で再起を誓った男の3
㈱ヤマホン社長 山本晴雄 <宮城県女川町>

㈱ヤマホン社長 山本晴雄 <宮城県女川町>宮城県女川町。約1万人が暮らしていた水産の町では、死者、行方不明者920名、全壊・半壊あわせて3199棟という壊滅的な被害を受けた。吉岡は震災以前、「サンマのヤマホン」とよばれた名物社長を取材したことがあった。震災直後、吉岡が真っ先に思い浮かべたのがヤマホンの山本社長だった。震災から1週間後の18日に女川に入った吉岡は、避難所を訪ね歩いた。翌日、町はずれの親戚の家に身を寄せていた山本社長に再会できた。女川町内のヤマホンの7つの工場と倉庫は壊滅し、自宅も流出。しかし、そんな中で山本社長の口から出た言葉は・・・


浜に生まれ、生きるということ 
 居酒屋 女将張間重子 <岩手県宮古市>
 
 漁師 熊谷哲男 <岩手県大船渡市>
 

姉 居酒屋女将張間重子 <岩手県宮古市>  弟 漁師熊谷哲男 <岩手県大船渡市>
張間重子は80 歳近くなっても居酒屋女将として店を仕切る。津波で店内はヘドロだらけになったが、わずかカ月弱で営業再開。 故郷の大船渡市に住む弟は父の跡を継いで漁師に。北洋のサケ・マスや南太平洋のマグロを追いかけた。父はオットセイ漁の射手。人の人生を通じて、三陸の漁業の変遷や津波被害の歴史を浮き彫りにする。




 
浜の復興をあきらめない
宮城県牡鹿半島、村の存続・復興に模索した男たち
漁師 須田賢一 <宮城県牡鹿半島・給分浜>
ホヤ漁師 阿部政悦 <宮城県牡鹿半島・大谷川浜区長>

宮城県男鹿半島、村の存続・復興に模索した男たち
東日本大震災の震源に最も近かった宮城県の牡鹿半島。表浜とよばれる半島の西側では津波の高さは平均で約7メートル前後だったが、東側の裏浜とよばれる沿岸部は最大で20メートルを超える津波に襲われた。

表浜の給分浜。カキ養殖やコウナゴ、アナゴ漁で賑わっていた漁業は震災で壊滅的な被害を受けた。自宅が集落の奥にあり、辛うじて被害を免れた漁師の須田賢一。須田は、一日でも早く漁を再開しようとリーダー役を引き受け、漁師仲間に声をかけた。「とにかく早く動いたことが幸いした」震災直後、涙ながらに悔しさを語っていた須田、その駆け抜けた3年間とは?




工場が流された!復活目指す中小企業

Mio
テクノロジー(株) 社長 大和田有悦 <宮城県気仙沼市>
㈱気仙沼エレクトロ二クス 社長 渡邊光昌 <岩手県一関市>
Mioテクノロジー(株) 社長 大和田有悦
日本有数の水産業の町として知られる宮城県気仙沼市。
この町で孤軍奮闘ともいうべき活動を強いられてきた中小企業がある。Mioテクノロジー、そして気仙沼エレクトロニクス。2社とも水産業には一切関わりのない企業である。壊滅的な被害を受けた2社。しかし、震災後、水産業には国や県をはじめ次々と支援の手が差し伸べられる中、電気関係の零細企業にはその手が届くことはなかった。

「鉛筆一本残らなかった」と言うほど壊滅的な被害を受けたMioテクノロジー。工場が津波で流され、仕事がゼロになっても全従業員の給料を払い続けてきた大和田有悦社長。孤立無援だと思っていた大和田をすくったのは・・・。

気仙沼市の郊外、階上地区に、携帯電話のパーツ組み立てをする気仙沼エレクトロニクスはあった。震災当時、工場長だった渡邊光昌は、社長の菅原と二人三脚で40年間会社経営にあたってきた。津波に襲われた時も、全従業員を帰宅させ、二人は工場に残り辛うじて生き残った。
だが、昨年の夏、菅原社長が突然亡くなった。吉岡は渡邊を誘って工場があった気仙沼へ。工場跡地に残る木の下に座り、吉岡は尋ねる。「失うだけの3年間だったと思いますが、あえて得たものがあるとすれば、それは何ですか?」



南米からのボランティア獣医
伊東節郎 <南福島>

原発周辺の被災地には約3000頭の牛が飼われていたが、1500頭が殺処分され、残り半分が餓死した。残った700頭が、いまも被災地の数軒の農家で飼われている。 
伊東節郎は家族をブラジルに残し、震災後、来日。単身ボランティア獣医として牧場を巡回、取り残された牛をケアしている。「殺処分」について彼はびっくりしたと言う。 
30年ぶりの日本社会に感じるものは何か。



吉岡忍からのメッセージ

東日本大震災から3年、被災地のあのとき、そして今
 
人には息づかいがある。海に生き、海の近くで暮らす人々にも、強さと弱さ、計算高さと臆病さがある。働く現場、生業と産業、地域と経済のいちばん根もとを動かしているのは、そこで生きる人々の生々しい息づかいである。
東日本大震災から3年が経つ。大津波と原発事故がかさなった超巨大災害は、この国の脆弱さを見せつけた。被災地にあふれた無数の悲鳴、無数の怒り、無数の失意を目の当たりにして、私たちの自信もぐらついた。
しかし、被災直後から東北3県を歩くうち、私には人々の息づかいがはっきりと聞こえるようになった。生命の気配すら消えた浜や町の瓦礫の上に、その白い息が流れ始めていた。浜の漁師たち、魚市場、水産加工の工場、あるいは中小零細の下請け企業や町の再建復興を担う行政の現場......
彼ら一人ひとりにとって、この3年間は何だったか。そして、これからの3年間にどんな希望と絶望を抱いているだろうか。
私はあの惨状のなかで出会った人々にもう一度会い、一人ひとりが洩らす息づかいに耳を傾けてみたいと思う。今後、この国がどう盛衰するのであれ、その重要な一角を、この人たちが占めている。
これは、私たちの未来を探り当てようとする旅でもある。